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かつて庄内には多くの釣道具屋があり、昭和40年前半頃まで毎年多くの庄内竿が作られて来たが、その大半の店は売らんが為の大量生産の竿作りであって名竿と云われる様な竿は出来なかった。
かつて明治・大正の名人と云われた上林義勝等は一シーズンに切った苦竹の本数は20〜30本と云われているのに対し、竿を作り売っていた釣道具屋はたった一軒で100本以上の竹を切って竿を作って来た。上林義勝はそれを4〜5年掛けてぴっちりと締めて癖の出ぬように丹念に精魂込めて仕上げた。釣りに出かけ魚が釣って多少曲がったとしても翌日には元の様に真直ぐに直っていた。だからそんな彼の竿を欲しがって金に糸目をつけぬ名竿を求める釣好きの旦那衆等のフアンが居て、いくら高価でも買い取られた。但し、上林義勝は自分が納得の行く竿のみしか売らなかったので、販売本数が少なかった。為にその生活は必ずしも良いものとは云えなかったらしい。それに比べ上級武士で生活に余裕のあった丹羽庄衛門などは、たっぷり時間を竿作りに精を出し良い竿を作った。ただ名人たちは数を作ろうとか売ろうとは思わず、自分自身が使う竿として満足できる竿作りに精を出した結果が名竿を生んで来たのである。
ところが釣道具屋たちの多くは売らんが為の竿作りであった為、4〜5年も手間隙かけて作って居られなかった。その多くは1〜2年で竿を仕上げ(庄内竿の仕上げの途中であった)、一応使える状態にして販売してしまう。ひどい所では2年子を3年子と偽り販売していた。いくら人件費の安かった時代とは云え4〜5年かけ10回以上矯めるような手間隙かけて作っていては、竿の価格は高価なものとなり商売には結びつかなかったのである。釣道具屋たちの多くは売れる竿作りに精を出していた事になる。その為に釣師の中で少し手先の器用な者たちは、釣道具屋から竿を求めず自然と自分で竿を作る様になった。
いくら素人とは云え、手間隙かけ更に実践を通して作られた自家用の竿は、結構良い竿となったものがある。それら素人竿師の中には、釣師の間で玄人竿師と呼ばれる者も多く輩出した。それら多数の素人竿師や玄人竿師の頂点に一握りの名人が存在した。名人と呼ばれた人たちは竹を見る目は勿論竿作りの技術の切磋琢磨と持って生まれた素質が必要で、後進の竿師の模範となり竿作りに精進することを大事にしてきた。
その反面、釣道具屋たちの竿は明治、大正、昭和と時代が移ってもまた更に戦後の釣ブームに至っても相も変わらず売れる竿を作り続けた。その為グラスやカーボンが登場すると簡単に売れなくなってしまった。釣道具屋のすぐに癖が付く竿よりも、手入れが簡単でいつも真直ぐなグラスやカーボンの竿の方が、扱いが簡単であったからに違いない。手入れの出来るお年寄りの釣師たちはそれでも昔作られた竿を持って釣りに出かけた。しかし其のお年寄りもほとんどが無くなりめったに見かける事がなくなった・・・・。
平成16年2月酒田市内の最後の釣道具屋の黒石釣具店の三代目の店主竿師石黒昭七氏が亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。これで庄内竿を扱っている釣道具屋さんは、庄内竿が好きで釣具屋となった鶴岡の一軒しかなくなりました。現在趣味で庄内竿作りを行っている人たちが、講習会などを行って伝統の火を消さないように頑張っているようですが、伝統の火を絶やさないで欲しいものです。
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